ゲスい話

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「虐待を受けました」の言葉の重さ

自己紹介としてまず話したいこと。

私は親に暴力を振るわれて育った。
これが自分という人間を作っている大部分で大前提。


この大前提が、難しい。
この大前提の壁を越えてお付き合い出来る人間は少ない。

親から受ける理不尽で一方的な攻撃というのを理解するのは、経験のない人にはかなり難しいことなんだと思う。


ピーターパンというディズニーアニメ。
有名なやつ。
我が家でもよく子供たちが観ている。
この作中でピーターパンがウェンディにおかあさんって何?と聞く場面がある。
ウェンディはこう答える。

「あらおかあさんを知らないの?おかあさんっていうのは、愛してくれて、世話してくれて、お話をしてくれるのよ」


一瞬で終わるシーンだけど、これすごくズシンとくるセリフ。

あらおかあさんをしらないの?

一般的な家庭で普通に、普通のお母さんを持っている(と見受けられる)ウェンディにとっては、お母さんを知らないということがもう既に想像の範囲を越えてる。

多くの人には、当たり前に親がいる。その親は、当たり前に

愛してくれて、世話してくれて

という存在なんだ。


この一言が、多くの人にとっての答えなのかなと思うとツラい。


世の中、愛してくれない親だって世話してくれない親だっているけど、今までの自分の(大した年数生きてないけど)日常生活で出会う人の中ではそんな家庭はマイノリティだと感じてきた。

多くの人は前述のセリフのように親とは子供のためを思っていて守る存在だと認識してるように感じてきた。


この感覚が、

私は虐待を受けました。

という一言を重く、重く、重くする。



親という存在を冒涜するにはとても勇気がいる。


親というのは尊敬しなければならない、感謝しなければならないものと思い込んでいる人々にとって、
虐待なんてあり得ないことなわけで。

親と仲が悪い、親のことが嫌い、うちの親はダメな親、そんな事言おうものなら
親に感謝できないなんて幼稚だ
とか
親のことを悪く言うもんじゃない
とか。

あれ。これって私の被害妄想が作った偏見だろうか?
いや確かに今までこんな雰囲気をビシビシ感じてきて、親には感謝しなきゃねと方々で耳にしてきて、感謝することが当たり前、じゃあ感謝出来ない人間はダメな人間なんだと。
私は刷り込まれてきた。思い込んできた。

親という存在は、否定的に語ってはいけない聖域を感じてきた。
否定的に語ることは冒涜だと。感じてきた。


虐待

この言葉を使うとすごく罪悪感がある。

それって、
つまり、
私の親は子供へ暴力を振るう悪い人間です
って意味になる。
自分の親を否定して、冒涜して、犯罪者であると。
重い。重い。


自分もその血が、流れているのに、それを否定することのつらさ。

重い。苦しい。


そしてそれは客観的な事実ではなく私自身の主観によるもの、
つまり説得力がなかったりする。
他人からしてみたら、まあまあ、ちょっと厳しい親だったかもしれないけどあなたのためを思ってのことだと思うよ?なーんて解釈も可能なわけで。


私、虐待されてました。

って堂々と言えるのってすごい勇気のいることだと思う。
少なくとも私は言葉に出すことがいまだに難しい。



余談そのいち

世間の人は虐待のニュースみたらやれかわいそうだの殺すな!だのお前が死ね!だの簡単に言うけど。
じゃあ過去虐待を受けて育ったという人にも同情的かというと違う気がする。
虐待って連鎖するらしいね!
とか軽々しく言ってみたり。

矛盾とか他人事なのをひしひし感じるから、

虐待かわいそう〜なんでこんなことするのか信じられない〜〜
みたいな、うわっつらの言葉吐くやつ大嫌い。

余談そのに

SNSとかで無意味に「うちの両親自慢」する人嫌い。
のちのちこの話は存分に語る機会を設けるつもり。




だらだらと取り留めない話したけど私の根底にあるものはこーいうもので、それが日常生活上で溝となっている感じがする。